日本の成功者の解説・・・・・徳川家康 |
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家康は3歳で母と別れ、6歳で今川家に人質に行く途中を拉致され、織田家の人質になります。
その間に父が死に、8歳から19歳までは今川家の人質として駿府、静岡市に住まわされました。
つまり、家康は幼少より苦労の人、我慢の人だったのです。
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その後、家康を織田家から取り戻してくれた臨済寺の長老、雪斎から学問、兵法を学びます。
それは風水にも通じる、「儒教の教え」なのです。
そしてそれが後に、「天下を取る素地」となったといわれています。
つまり、「吉相の人」になったのです。
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家康は、身分制度を支える基盤思想として、「儒教的礼節」を国の基礎としたので、戦国時代のように、戦争で多くの人が命を落とすことが無くなりました。
そして、長期政権を維持し、徳川時代は260年余りも続きました。
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ところで、信長が本能寺で殺されたのが49歳、秀吉が関白になったのが50歳で、亡くなるのは62歳。
それに対し家康は、62歳で征夷大将軍、75歳で亡くなります。つまり二人とくらべ、遅咲きなのです。
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しかし、二人は事実上、一代限りの天下に対し、徳川家ははるかに長い天下を勝ち取ります。
家康は死ぬときに「遺訓」を残しますが、そこでも、「気の持ちよう」が大切なことが伺えます。
それは、家作りにも通ずるものがありそうです。
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徳川家康の教え |
1.「人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。」 |
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家作りも、ローンという重荷を背負い、30年という長い道のりを歩んでいきます。
決して急がず、チャンスが来る「時」を待ちましょう。
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2.「不自由を常と思えば不足なし、心に望み起こらば困窮したる時を思いだすべし。」 |
家というのも、そもそも完璧ではないものです。少し不便なくらいがちょうどいい、と思えば不満はないはずですね。
もし不満が出たら、家を買う前、まだ持ち家がなくて借りていたときのことを、思い出せばいいのです。 |
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3. 「堪忍は無事長久の基、怒りを敵とおもえ。」 |
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時が来るのを待ち、耐え忍ぶというのは、家作りにとって長い安全の源となります。
逆にあせったり、思うようにいかないことを怒ったりすると、すべてを台無しにしてしまいます。
家にしても、家族にしても・・・。
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4. 「勝つことばかり知りて、負くることを知らざば、害その身にいたる。」 |
家作りにおいても、思い通りにいくことだけを考えてはいけません。
予算面や建設時期、広さや設備など、思い通りにならないこともあることを忘れてはダメです。
思い通りにならないことを無理に押し通そうとすれば、結局、その害はわが身に降り注ぎます。なにごとも、78点で満点です。
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5. 「おのれを責めて、人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」 |
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自分の社会的立場や身分や支払能力にとって、足らないくらいの家で、ちょうどいいものです。
逆に、過剰なローンや分不相応に立派な家は、破滅の元です。
また、起きることのすべての原因は、自分自身にあります。
決して、人のせいではありません。破滅したとするなら、原因は自分にあります。 |
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